訪問者シリーズ 最後の抱擁
Name: 虎清水権造 (2005年3月24日)
Date: 05年3月24日 10時30分42秒
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前回の先輩が帰るときの話です。先輩は12年にも及ぶ駐在生活に別れを告げ日本へ帰国する日、朝から今までずっと遊んできたゴルフ場に行き、一人でゆっくりと1ラウンド回った。変な例えになるが、死刑囚が最後の食事を何にするかというシーンがよく映画で使われるが、駐在員の帰任のときもこれと同じように、あれもしようこれもしようと思いつつ結局何も出来ず、過去の思い出が走馬灯のように走り出してしまう。そして瞬く間に夕闇を迎えてしまう。
だいたいサイゴンから日本へ帰任するときはANAにしろJALにしろベトナム航空にしろ深夜便となっているので、サイゴンは最後の夕食を楽しみ、だいたいよる9時ごろまでがタイムリミットになる。
夕闇が迫ると特に12年も費やしたサイゴンの生活。いつか来るとは信じ、またもう来ないのではないかと思い始めた最後の夕闇に接したとき、初めて日本へ帰ることを実感する。それまでは帰国準備という作業の中御祭り騒ぎのような時間が過ぎまた、自身もある種興奮状態に陥り闇雲に時は過ぎていく。しかし終わりはやってくる。その終わりを象徴するのがサイゴンの夕闇である。
3月、9月に異動することが多い日本人駐在員ははっきりした夕闇を見ることが出来る。それはいつにもまして真っ赤に燃える夕闇だ。そのときばかりは初めて東南アジアの闇が怖く感じられる。これから先の人生。日本での生活。単身赴任者が家族の元へ帰る、大丈夫か?居場所はあるのか?

夕闇を見つめているとだんだんに口数が少なくなってくる。この雰囲気もたとえが悪いがやはり死刑囚が死刑台に向かうときにほんの少し似ているのかもしれない。
最後の食事は愉快に過ごしたい。サイゴンで世話になった友人やレストランのオーナーに囲まれて、サイゴンで一番うまいものを食う。でもどうもそこまでおいしくない。決して涙を見せるわけでも感傷的になるわけでもないがどうもしっくりと来ない。そうだ今日本当に帰ってしまうんだ。もう簡単にこの場に来られるわけではない。このオーナーともこの友人たちとも…
時間は残酷に過ぎていく。飲んでも飲んでもアルコールは体を駆け巡ることも無く、決して陽気にしてくれることも無い。悲しいわけでも感傷的になっているわけでもないのに、身体を包む空気がいつもより数十倍どんよりして重い。手を上げるのも億劫になる。
容赦なく時間は過ぎ9時となる。
最後ににやりと笑ってお勘定をしてもらう。外の闇がいつもより濃い。もうやり残したことは無いのか?わからない。
ラウンジの女の子には誰一人今日帰るとは言っていない。空港までお別れを言いに来られるのは恥ずかしいし、どうも自分の性に合わない。そこまでしなくてもいい。無言でお別れを言えばそれでいい。
だんだんタンソニアット空港が近づいてくる。いつもはこんなに時間がかかるのにと思ったこともあるのに、今回だけはあっという間だ。
タンソニアット空港には従業員やら友人やらが輪を作って待っていてくれた。「がんばれよ。」「帰ってこいよ」「東京で会おう」色々なことを言って貰える。ただどうも言葉自体空虚だし現実性を持たないことを互いに理解している。
もう行かなくては、搭乗口に歩きかけると、アオザイを着た女性がおずおずと歩み寄ってくる。あの別れた彼女だ。
「あなた、許して。本当に愛したのはあなただと気付いたときは、もう遅かった。」
大きな黒い瞳から真珠の涙を流した。
そしてそっと最後の抱擁。
タンソニアットのカクテルライトに照らされてアオザイが透き通りその場だけ浮き上がって見えた。
男は常に未練を残しながら駐在地を後にする。